天理軽便鉄道は大正4(1915)年大阪から天理へ向かう天理教信者の短絡線的需要を 見込んで開業。国鉄関西線法隆寺駅前の新法隆寺から東へ天理まで運行していました。 当初はコッペル機が小さなボギー式客車をひいて一日13往復。新法隆寺・天理間9qの所要時間 は34分だったということです。6年後の大正10(1921)年には大阪電気軌道(のちの近鉄)に買収され その一年後には平端・天理間が標準ゲージにされ大阪から天理へのメインルートは西大寺経由になり 762ミリのまま取り残された平端〜新法隆寺間は1945年に営業休止。 昭和27(1952)年に正式に廃止となりました。(ウィキペディア) 今回は法隆寺駅付近の廃線跡と痕跡、途中駅の平端の遺構を訪ねてみました。 怪しい風景コレ何?へ戻る 前に戻る セピア色の線路目次へ |
JR法隆寺駅から奈良方向を見る。天理軽便鉄道は画面の右方向へ延びていました。 |
法隆寺駅前のバス乗り場。ちょうどこのあたりが新法隆寺駅の跡のはず。 |
法隆寺駅を離れて田んぼに出るとすぐに廃線跡が見えてきます。左はJR関西線(大和路線) |
古い枕木が転がっている。 |
田んぼの用水路に残っているレンガの橋台跡。向こうには廃線跡が。 |
舗装されてサイクリング道となっている廃線跡。かなりはっきり残っているので嬉しいです。 |
廃線跡の横を走るJRの快速。その昔はトロトロ行く軽便列車をC57が追い抜いてたんでしょうか。 |
サイクリング道の脇に集められている枕木その他。 |
何やら意味ありげな鉄製の部品のようなもの。 |
トタン板をはがしてほじくり出したくなります。 |
ステップのような鉄板。 |
こういう柵を車体前面下部に水平に取り付けた軽便の車両を何かで見たような気がしますが、、、、 障害物を車体に巻き込まないようにするためか?考えすぎ?? |
廃線跡は舗装が途切れて築堤だけになってやがて富雄川にぶつかります。 |
築堤の上にも使いこまれたような古いレンガ。セメントがこびりついています。 |
田んぼのあぜ道と接する築堤。小さな踏切だったようです。 |
こちらは少し古い画像で富雄川を渡ったところ。池を分断する廃線跡の築堤。 この画像は西向いて撮っています。前方が法隆寺方向になります。 |
今度は東向きに天理方向。ここから先は平端まで廃線跡はほとんど分かりません。 |
平端駅前に入る所。この道路が天理軽便の廃線跡と思われます。 女性が立っている左側には広場があり、そこに転車台があったそうです。 |
駅前広場の隅にある築堤とコンクリートの遺構。 |
近鉄橿原線の平端駅ホームから。左は天理線のホームの電車。 天理軽便の線路は建物手前の橋台の辺りを前方に伸びていたと推測。 近鉄がお構いなく覆いかぶさるようになっています。 |
青いフェンスの影に錆びたものが。信号ケーブルの滑車のようです。 |
アッと思ってそれを近くで見たくて出てきました。見えにくい所ですが左のフェンスの横にあります。 |
無理にのぞき込んで見た滑車。これが一番ハッキリ形として残っている天理軽便鉄道の遺構のようです。 |
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